ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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1681.2011年12月20日(火) 本気で痔の治療に取り組む。

 今年になってからどうも痔の具合がすっきりしない。10月に小中陽太郎さんの「いい話グセで人生は一変する」(青萌堂刊)出版記念会が開かれた折り、その後の2次会にも出て少々飲み過ぎたせいか、その晩から今までになく痔の具合がおかしくなった。尾篭な話で恐縮だが、翌朝すぐかかりつけの森内科で出っ張ったイボ痔を押し込んでもらった。このスカッとしない状態を何とかすっきりしないとこれから旅行、特に海外へ出かける時に困ると思い、早い時期に方をつけたいと考えていた。

 幸い近くに住む妻の知り合いが治療してもらったクリニックを紹介してくれたので、思い切って昨日診てもらった。診察の結果は「痔核」、いわゆる「イボ痔」と云われるもので、4段階のうち私の痔核は軽い順番からいくと3番目にあり、手術する必要まではないが、早く治療した方が良いとの診断だった。やるならALTAと呼ぶ硬化剤注入療法で患部を注射して固めるということだった。それなら「善は急げ」とばかり、早速今日午後注射と点滴の治療をしてもらった。この結果は来週初に注射後の様子を診てもらってから、どうするか医師から話がある。

 いつまでも悩みを抱えていても仕方がないので、早い結論を出してしまったが、海外へ取材に出かけられないことが一番の悩みである。妻の知人も同じように治療をした結果、最近スペイン旅行もしたようだし大分具合が良さそうなので、私もこれで直れば頭上に淀んでいた暗雲は霧消する。

 実は再来年は、戒厳令下で身の上に降りかかったアンマン(ヨルダン)の丘の事件以来ちょうど45年になる。あの時私は突然ヨルダン軍軍隊に取り囲まれライフル銃を突きつけられ身柄を拘束されてしまった。捕まった1968年1月当時は、第3次中東戦争直後で市内には軍人が跋扈して軍用車や戦車が走り回り、市街には異常な緊張感が漂い住民も神経を尖らせピリピリしていた。丘の上の景色はほとんど覚えていないが、土地勘は多分大丈夫だと思うので、大分前から何とかもう一度現場を訪れて「なぜ軍隊なぞに身柄を拘束されてしまったのか?」を検証してみたいと考えていたところである。そんなことからヨルダンに行くためには、抱えている病を一刻も早く追い払いたいと思っていた。何とか早くスカッとしたいところである。

2011年12月20日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1680.2011年12月19日(月) 北朝鮮の‘将軍様’金正日総書記急死!

 昨日チェコのバツラフ・バベル前大統領が 75歳で亡くなった。バベル氏は1989年のビロード革命を率いて旧チェコスロバキアの民主化を無血で達成した。反体制の劇作家として知られ、1968年の「プラハの春」では、プラハ市内へ侵攻したソ連率いるワルシャワ条約機構軍に抵抗して身柄拘束された。その後民主化運動のリーダーとして活動を続け、遂に無血革命を成功させ国民に圧倒的に支持されて初代大統領の座に就いた。

 個人的には「プラハの春」と言えば、まずチェコ留学の夢を壊された忌々しい記憶が思い出される。その後「プラハの春」20周年記念日の1988年8月20日には、偶々プラハに滞在していてバーツラフ広場で大きなデモの中に誘い込まれそうになった。いずれにしても私にとって「プラハの春」の忘れられない人物は、国の民主化への開放に火を灯した党第1書記のドブチェック氏と、民主化リーダーとして無血のビロード革命を成し遂げたハベル氏だった。

 その英雄ハベル氏死亡のニュースに引き比べ、今日唐突に飛び込んできた「世界の妖怪」の死にはびっくりさせられた。何とお隣・北朝鮮の「将軍様」金正日総書記が2日前に心臓発作で急死したのである。第2次世界大戦後スターリンやケネディの死に匹敵するほどのショッキングなニュースである。午後1時過ぎに臨時ニュースが流され、号外も発行され、この「妖怪」の死亡はあっという間に日本中を駆け巡った。テレビの番組は変更に次ぐ変更で、流石に世界がマイナス・イメージで注目するだけの大物である。この悪名高き金正日の死に比べると、国民を力づけ国の民主化へ導いた、偉大なるハベル氏死亡のニュースはあまりにも慎まし過ぎるように思える。

 経済低迷、農業凶作に加え、外国の経済封鎖の中で追い詰められた金総書記には、まだカリスマ性というか、絶対神のような存在感と影響力に加えて、瀬戸際外交という危ない橋を渡って世界を恐怖に陥れる悪霊のような悪いイメージがあった。しかし、父親の金正日・総書記の継承者と公表された三男の金正恩はまだ若く、政治舞台へのデビュー後日も浅く、実績はほとんどない。政治基盤も極めて弱い。果たしてその金正恩に金王国を継承していく力があるだろうか。しばらく革命とか、権力闘争、金王国崩壊という騒ぎが起こることはないだろうが、軍部を中心によほど三男坊のバックアップ体制を固めないとこれまでのように不安定的安泰というわけにはいかないだろうというのが、大方の見方である。これから北朝鮮の政治、外交についていろいろ交わされる議論が見ものである。

 この怪物のような金正日の評価なぞはどうでも良いが、これから北朝鮮はどういう道を進んでいくのか。核・ミサイル開発問題はどうなるのか。拉致問題はどうか。

 今日金正日死亡、享年69歳。それでも私より4歳若い。

2011年12月19日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1679.2011年12月18日(日) 年賀状を書いて思い出すこと

 先日海外の知人、友人にクリスマス・カードを送ったばかりだが、ここ数日は年賀状の宛名書きに追われている。漸く今日までに500枚余りの宛名を書いてほっとしたところだ。まだ50枚ばかり書かなければいけない。年を経るにつれいただく喪中の葉書も年々増えている。今年はすでに30枚を超えた。そんな中でも高校ラグビー部の蓮池くんが2月に亡くなった訃報が一番堪えた。すでに3月に奥様から亡くなられたとのご連絡をいただいたので、悲しみと寂しさは薄らいでいるが、それにしても3年間ともに練習で汗を流し、試合で悔し涙を流したことが忘れられない。

 蓮池くんは第1希望の東京商船大学航海科へ進学し、卒業後日本郵船へ入社して、若い時の願い通りNY定期航路の船長を務めていた。定年後は最近まで名古屋港で水先案内人として勤務していた。卒業後は近くにいることが少なく、あまり会う機会がなかった。今にして思えば、もっと会って酒でも酌み交わしながら、外国の話や人生論でも語り合いたかったというのが本音である。

 高校では私はフォワードだったが、彼は司令塔であるスタンド・オフとしてプレイし、プレース・キッカーとしても活躍した。同期生8人のラグビー部仲間のうち、鬼籍に入ったのは彼が4人目で実に寂しい。蓮池くんのご冥福を心よりお祈りしたい。

 年賀状については、大分前に亡くなられた小学校の恩師から心がまえを教わった。その中でもボールペンは絶対使用してはいけないと言われたことが妙に頭にこびりついている。そのころはどうしてだかよく分らなかった。当時はボールペンの品質が劣っていたこともあり、綺麗な字が書けなかったことがボールペンを敬遠した理由ではないかと思っている。それでもその時いただいた恩師のアドバイスを今でも忠実に守り、手紙や文書ではほとんどボールペンを使わない習慣が身に着いた。今でもメモ書き以外は万年筆か、筆ペンを使用している。小学生の時から大学まで版画を彫って年賀状を作成していたのも恩師の影響である。

 今ではPCでいとも簡単に年賀状を作成し印刷することができる。まさに隔世の感がする。遠くにいる友人に想いを馳せながら、万年筆で宛名を書いていると、彼は今頃どうしているだろうと1年に1度は思い出す。中学生時代の友人は、恩師ともども京都に居住して普段ほとんど会うことはなく、年賀状だけが細い友情の交流パイプである。そんなことをぼんやり考えるようになったのは、年齢のせいだろうか。

 こうして間もなく新しい年を迎えることになる。来年のお正月には友人からどんな年賀状をもらえるだろうか。

2011年12月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1678.2011年12月17日(土) 福島第1原発の「冷温停止状態」宣言は拙速か?

 昨日野田首相が福島第1原発のステップ2をクリアした「低温停止状態」に達したと内外に発表したことが、大きな話題を提供し、一部では物議を醸している状態である。今朝の朝日社説では実態は以前と変わっておらず、今後の推移も予断を許さないと決めつけている。

 当初は来年1月中旬にステップ2を終える予定だったが、国際会議で年内完了を公約し、収束を公表することによっていち早く安全性をアピールしたかったのではないかと言われている。

 これまで政府公式発表と東電情報、メディア、専門家の間には事故発生以来情報の行き違いと混乱が数多くあった。政府の原子力災害対策本部では1~3号機の炉の温度は、9月下旬以降100℃を下回り、一昨日時点で38~68℃と報告され、放射性物質(セシウム)の外部への飛散も毎時6千万ベクレルで、事故発生時の1300万分の1にまで減少したと公表している。被曝線量も目標の年間㍉シーベルトを下回って最大で年間0.1㍉シーベルトと、安全数値?であることを強調している。

 だが、われわれはこういう数値をただ鵜呑みに信用するより仕方がないのだろうか。実際はどうなんだろう? 手元にある東京電力が最近株主へ送付した決算報告書、「TEPCO2011中間報告書」を捲ってみると、「原子炉圧力容器底部の温度は、1号機が37℃、2号機及び3号機が69℃となっており、いずれも100℃以下で安定」と東電サイドの数値が記されている。これは11月17日、ちょうど1ヶ月前に書かれたものである。セシウムの放出量もすでに1,300万分の1に落ち、「年間被曝線量は最大で約0.1㍉シーベルトとなっています」と報告されている。昨日発表した数値とほとんど同じなのである。対策本部が昨日国民に発表した数字と、東電がそれより前に株主に知らせた数字とまったく同じとはどういうことだろう。勘ぐれば、2ヶ月前の数値だって同じようなものではないだろうか。何かそこに作為があり恣意的なものが感じられてならない。

 ステップ2終了が、時宜を得た判断だったかどうかは今後徹底的に精査され、議論が交わされることだろう。現在も放射性物質は相変わらず毎時6千万ベクレルも放出されているうえに、水素爆発の不安が払拭されたわけではない。国内では佐藤雄平・福島県知事が冷温停止状態はまだ早いと言っているし、海外からも疑念を抱かれているようで、ドイツ・シュピーゲル紙はこの冷温停止はごまかしと断じている。アメリカのヤッコ原子力規制委員長も事実を究明すべく近日日本へやってくるようだ。

 それにしても、これまで情報が入り乱れたせいか、こと原発に関しては何をやってもあまりうまくいかないようだ。

2011年12月17日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

1677.2011年12月16日(金) 福島第1原発事故収束宣言

 今年5月に大学ゼミの恩師、飯田鼎先生が亡くなられてゼミ会員はみんな心にぽっかり穴が開いたような気持ちになっている。人生の生き方とか、学問への姿勢などについて半世紀に亘りお世話になった。改めて感謝の気持ちが湧いてくる。

 先月例年通りゼミの例会を開いたが、出席者の気持ちとしてはどうしても寂しい気持ちは拭い切れない。そんなもやもやした気持ちの中で、飯田先生を追悼する気持ちを込めた追悼文集といおうか、ゼミの記念文集を発行しようという話がゼミ内部からばかりでなく、ゼミの外からも持ち上がり、今日協力してくれるスタッフが集まり、初めての打ち合わせを霞ヶ関の日本プレスセンターで行った。ここはペンクラブのセミナーでもよく利用するが、今日初めて9階の談話室とレストランを利用した。雰囲気も良く、食事と飲み物の価格もリーズナブルだ。ここを世話してくれた元毎日新聞記者で、白梅学園大教授の山路憲夫さんが発起人となり中心となってゼミ会員7人が集まった。一応来年のゼミ例会までに記念文集の発行を目指すことになった。

 ところが、今後編集作業を進めるに当たり、うっかりして私が全般的なまとめ役を引き受ける破目になってしまった。執筆者から原稿を私の元へメール送信してもらうことにしたが、考えてみるとそうすると受け取った原稿を私のPCで整理し、一切合財管理することになるのではないか。結局印刷屋に引き渡す最終原稿を組版までして完璧なものにする必要がある。果たして私にそこまでできる余裕があるだろうか。もっと細かい点まで考えるべきだったかも知れない。少々迂闊だったのではないか。7人の中で最長年者の私より、こういう編集のような仕事は若い人が引き受けるべきなのに、私がぺらぺらしゃべり過ぎたのが敗因だった。まぁ今更愚痴を言っても始まらない。最善を尽くすより術はないと思う。

 ゼミとしてはこれまでにも文集は発行しているが、これが最後の文集になると思うので、立派な金ぴか文集を作る必要はないが、内容的に充分飯田先生を追悼する気持ちの籠ったもので、読んだ人が感銘を受けるような文集にすることが大切ではないかと思っている。

 さて、今日政府は福島第1原発の冷温停止状態の達成終了を確認して、事故の収束を宣言した。確かに100℃以下の状態が継続しているということから、年内にはそう宣言されると予想されていた。

 ただし、この収束宣言には専門家の間には異論もあり、その根拠として冷温停止状態になっているが、溶融した炉心の場所が特定できていないことから収束することには疑問の声もある。さらに放射性物質が依然として大気中へ放出されている。

 ほかにもまだ問題点が大分あるようだが、それを押し切って敢えて事故収束を宣言せざるを得なかったのは、風評被害など国内外に根強い原発事故への不安を払拭したいとの狙いがあったようだ。残った大きな問題は、まだ避難している住民がこの収束宣言をどう思うかである。自分たちの住んでいた家に帰ることができない以上、彼らは決して原発事故が収束したとは思わないだろう。

 今後事故収束の議論はどう進められるだろうか。

2011年12月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com