充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。
ブログ・ご意見番の意見
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1974.2012年10月8日(月) 山中伸弥・京大教授にノーベル賞授与
孫の怪我が心配したほどのことはなかったことに安心したのか、息子は午後近くの駒沢公園にジョギングに出かけて帰ってくるや、体育の日らしく公園内では多くのイベントが行われていて大勢の人出があったと話してくれた。
その後夕方近くなって妻と自由が丘へぶらぶら歩いてお祭り見物に出かけた。自由が丘駅周辺に近年若い人を中心に多くの人が訪れるようになった。前々週のテレビ東京の土曜番組「出没!アド街ック天国」で自由が丘を特集し、その中で人気一番として紹介された「自由が丘女神まつり」の影響もあるのだろうか、番組で紹介された店に多くの人が群がっていた。一昨日から今日まで駅前の女神像にあやかった、その「自由が丘女神まつり」が自由が丘駅前を中心に開かれている。
以前は駅前の即製ステージで気の置けない音楽を聞かせてくれていた。横須賀米海軍基地所属のブラスバンドによるマーチなぞを楽しんだ。それが最近は飲料水の会社経営者がくそ面白くもないトークショーなんかで宣伝して、見ている人たちをしらけさせている。商店街振興・活性化を目的に祭りの地域を広げて、車の進入禁止区域も広がり、多くの人を呼び込もうとする意欲は判らないでもないが、狭い通りには屋台やワゴンカーがすし詰めで歩くのも難しい。それでも大勢の人々が歩いて楽しむのは良いが、狭くて歩きにくいうえに、ワインを振舞ったりするものだからワインカップを手にした若者がすれ違う際にワインをこぼされるのではないかと余計な気を遣う。
近年各地で気軽に小規模なフェスティバルや、イベントが開かれるようになったこと自体は、大変結構なことだと思う。だが、どうも騒いで楽しむことばかりに気持ちが傾いて、どっと繰り出す地元外の人たちの対応に手を焼いているのではないだろうか。駅周辺の車進入禁止区域の拡大は、近くでかなり交通障害を起こしていたように思う。商店会と警察は打ち合わせを充分行ったのだろうが、このまま野放図に規模の拡大ばかりに追われていると、人が溢れて街はいずれ機能不全に陥るのではないかと、あまりの人出に圧倒されるあまり心配になってきた。
今度目黒区議の須藤甚一郎さんに会ったら、その辺りのことを話してみようと思っている。
さて、夕方臨時ニュースが山中伸弥・京都大学教授にノーベル医学生理学賞が授与されることに決定したと伝えた。暗いニュースが多い中で噂には挙がっていたが、やっとノーベル賞が授与されたのかと嬉しい気持ちになる。夜のテレビニュースはどれもイの一番にこの嬉しい受章を伝えている。マウスからiPS細胞というものを造り出したもので、これから人間の臓器を補完的に再生するという研究成果が受章の対象になったようで、我々素人には中々理解しにくいが、世界でも初めての成果が評価されたということのようである。ご本人が言っていたが、自分は大学時代は医学部ではなく、ラグビー部で活動していたと言っていたのが、同じラグビーをプレイしていた者にとって心強い。
とにかくおめでたいニュースであり、日本人に勇気を与えてくれる快挙である。
1973.2012年10月7日(日) 孫の怪我にドキッ!
明日の体育の日を含めて昨日から3連休となり、各地で体育関連のイベントが催され賑わっているようで、今日もいつも通り駒沢オリンピック公園にウォーキングに出かけたら中央広場には沢山の店舗やテントが軒を並べ、沢山の人が出入りしていた。いろいろ珍しい行事があって、それはNHKの夜のニュースでも華々しく報道されていた。
休みになるといつもジョギングに出かける居候中の長男が、心配そうな顔つきをして今日は止めるという。奈良に別居している孫の1人が遊戯台から落っこちて頭を怪我して病院にいるので、連絡しているところだと言う。これはただ事ではない。家族と離れていると何事もなくても気になるものだが、怪我をしたとなると多少取り乱すのも致し方ない。長男は今秋大阪転勤を予定して子どもたちの学校の関係で先に家族を奈良へ引っ越しさせてしまったが、案に相違して予想が外れ当分家族離れ離れの生活か続くので、心配していた。どうやら12月に予定の大阪転勤があるような話になったので、取り敢えずほっとしていたところ今日の孫の事故になってしまった。
夜になって詳しい様子が分かった。X線検査の結果、どうやら大事には至らないようでほっとした。しかし、後頭部を打撲したので、今日1日はずっと注意深く診ていることが必要ということだった。取り敢えず胸をなでおろした次第である。
さて、今日1日中封筒の宛名書きと冊子の袋詰めに費やした。エッセイ「45年ぶりにアンマンを再訪して」を寄稿した「知研フォーラム」百余冊を知人に郵送する準備をした。明日玉川郵便局本局から郵送するつもりだ。
秋冷の候であるにも拘わらず、どうも秋らしい気候とは縁遠かったが、今日は大分冷え込んで漸く秋本番となった。これから少しずつ寒気が強まってくるのではないだろうか。懐だけは寒くならないよう気をつけたい。
1972.2012年10月6日(土) 北朝鮮の非人間的なパフォーマンス
今日1人の北朝鮮兵士が国内で上官2人を射殺し境界線を越えて韓国へ亡命してきた。詳細は明らかになっていないが、また南北両国間に新たな紛争の火種が生まれるに違いない。
わが国と北朝鮮の外交関係は、拉致問題がこじれてから膠着状態のままである。国家指導体制を世襲して間もない金正雲総書記は、祖父、父が君臨したように、国のカリスマ的なリーダーに祭り上げられたが、父と同じように外交的に配慮することもなく国際的な鼻つまみ者となる可能性があり、国内では貧しい農民ら大多数の国民を無視して彼らを困窮生活に追い込んで何も反省するところがない。こういう指導者を戴いた物言わぬ国民こそ気の毒である 拉致問題は一向に解決の兆しすらなく、時間が経過するばかりである。
最近になって北朝鮮が終戦前後に亡くなった日本人の遺族を受け入れ、遺骨の発掘作業に立ちあわせたり、慰霊祭を行ったり、その映像をテレビで公開して、日本に対して多少門戸を開きそうな素振りを見せた。だが、これとて単なるジェスチャーで、思わせぶりのパフォーマンスにしか過ぎなかった。拉致問題でも日本に対してすでに解決済みとして取り合わず依然先が見えない。北朝鮮で亡くなった多くの日本人の遺骨収集作業を今後どのように進めるのか、日本人を受け入れて日本人が望むような作業をさせてもらえるのか、まったく見通しが立たない有様である。北朝鮮のやり方は、ちょっと期待を持たせては実を与えない意地悪ジジィがよくやる手法である。
北朝鮮の非情なやり方は拉致事件にしても、遺骨収集にしても、家族を始め周囲の人々が悲しんでいる心の隙間にずうずうしく割り込んできて、被害者の落ち込んだ心情につけ入り被害者の気持ちを翻弄し弄ぶ非人間的な非道さである。まともな人間の行為として、とても許されないことに良心の呵責のひと欠片も感じない人間性では、今後何を言っても誠意を持って話し合いに乗ってくれそうもない。拉致問題さえ解決していれば、北朝鮮を相手に話合いすることもないし、今後国交を結ぶ必要もないくらいである。
厚生労働省の調査によれば、先の大東亜戦争時に海外や、沖縄、硫黄島で亡くなった戦没者は240万人で、その半数近くの戦没者の遺骨がまだ日本に帰っていない。戦後67年が経ち、遺族は高齢化しているが、外国における難しい作業故、このうえ遺骨返還作業のピッチが上がるとも思えない。遺族にとっては大変お気の毒ではあるが、今後これまで以上に収骨作業が効果を上げても遺族の気持ちを納得させるようなことは難しいだろう。
私自身20年近くに亘り厚労省の遺骨収集事業に関わってきたが、私が担当した中部太平洋地域では地域性や島民感情、気候などから考えて比較的収骨の成果が上がっているように感じていたが、国の資料によれば、中国本土に比べるとまだ少ない。一方で、フィリピン方面ではまだかなりの遺骨が現地で苔むしている。高齢の遺族にとってはもう時間がない。このまま遺骨収集事業は永遠に未解決の課題のままとなってしまうのだろうか。微力ながら協力したつもりでいるので、残念な気持ちがしている。
1971.2012年10月5日(金) 追悼文集最後の編集会議
「知的生産の技術研究会」の定期機関紙「知研フォーラム」10月発行号に「45年ぶりにアンマンを再訪して」と題して拙稿を寄稿した。これには2つの副題が付いている。主題前に「第3次中東戦争後」、後には「戒厳令下で身柄拘束された現場を検証」を付した。あまり穏やかな内容でないことはテーマから察することができるのではないかと思う。写真を含めて8頁に及ぶものだ。
これは今年6月ツアーに参加してヨルダンとイスラエルを訪れた後に、ツアーから別れてひとりアンマンに滞在した時の旅行記を綴ったものである。1967年暮れにアンマンでヨルダン軍兵士に身柄を拘束された現場を何とかもう一度訪ねて、捕まった現場を当時の情景を思い出しながら確認してみたかった。結果的にその捕まったスポットは特定できなかったが、周辺の空気と雰囲気を知り、大体この辺りと思われる地点で、昔日を偲ぶことにした。そんな印象を軽く綴ったものである。若く元気溢れる時代の些か無軌道ぶりを、楽しんで読んでもらえればありがたい。
何冊かを別途購入したので、親しい知人、友人に送って読んでもらおうと思っている。
さて、今日は恩師の追悼文集の最後の編集会議を恒例により日本プレスセンターで行い、最終的に収支、配布方法、仕上がり等と、今月27日に予定しているゼミの最終例会について打ち合わせをした。電話で印刷会社に最終的な費用を確認したが、ゼミ会員から寄せられたカンパで大分余裕のある決算になりそうでほっとしている。費用が膨らむのを抑えることができたのは、全編集委員がPCを活用して印字、割付、組版まで編集作業のほとんどを自分たちの手で処理できたからだと思う。追悼文集も今月10日前後にはでき上がる予定で、体裁も多くの写真・イラストを挿入したので見栄えが良く、内容的にも充実したものに仕上がりつつある。編集委員長としてはまずまず責任を果たせたように思っている。印刷された文集を手に取るのが楽しみである。
1970.2012年10月4日(木) ビルマ民主化への道のり
最も好きな国のひとつであるビルマが、従来の頑なな軍部独裁体制から徐々にではあるが民主化への道を歩き始めた。先月民主化のリーダーであるアウン・サン・スー・チーさんが訪米してオバマ大統領と会談し、ビルマの経済制裁解除について話し合った。アメリカの現職大統領が一国のリーダーと対抗する反対派のトップと面会することは極めて異例で、米国内でも驚きの目で見られているが、それは明らかにスー・チーさんとビルマの民主化をアメリカが支援するシグナルでもある。そして、その2日後にアメリカを公式訪問したティン・セイン大統領は、国連総会の一般演説で制裁解除に理解と支援を求めた。
現在ビルマ国内で経済投資に一番深く関わっているのは、友好関係にある中国で、国内のインフラ整備にも中国資本の影響が大きい。ビルマは中国の影響を受けながらも、ここで制裁解除により欧米資本を受け入れて経済成長の足がかりを築くとともに、中国資本と欧米資本の投資バランスを上手に保って行こうとの腹の内が見える。
今や日本のビルマへの投資額と貿易総額は、これまで欧米の経済制裁に同調していたせいで大きく後退し、ビルマにおける日本の存在感は極めて薄くなった。しかし、先月13日付本ブログでも取り上げたように、日本の鈴木敬司大佐がビルマの独立に貢献したことがビルマの高校生の教科書に紹介され、彼らの間では日本人の名を忘れがたいものにしている。
ところが、先月28日の民放テレビ番組「小さな希望たちの賛歌」の中で、元陸上オリンピック選手の為末大選手がビルマの小学校を訪れ、日本について訊ねたところ日本について全員が知らなかったことに衝撃を受けた。かつては、ビルマ中どこへ行っても大人も子どもも日本を知らないなんてことはなかった。これは日本とビルマの間に経済交流が激減したと同時に、文化面でも交流が途絶えたことを意味している。高校生はともかくとして、もっと下の年代層に国際交流を通して日本をPRすることを考えなければいけない。
年配のビルマ人に対する最近のテレビ・インタビューでも、日本が懐かしい、もっと多くの日本人がビルマを訪れてほしいと語っていたが、これは間違いなく本音である。どういうわけか、ビルマの人々は日本への憧れをしきりに話してくれる。もっとビルマを訪れてほしいと率直に語ってくれる。
民政移管のスピードが遅いと指摘されたビルマが、ここへ来て大きく民政へ舵を切った。政治犯の釈放、公正な補欠選挙の実施、新聞・雑誌の事前検閲の廃止、労働組合の誕生等々は、これまで軍政が頑として妥協しなかった非民主化の癌細胞だった。それらが民政化の過程で認められ、現政権も国民的支持のあるスー・チーさんと和解して、ともども国際社会へ改革を進めていることをアピールした。
まだまだビルマ民主化の道は遠いが、元々勤勉で真面目な国民だけに、きっと民主国家として立派に独り立ちしてくれることを1ビルマ・ファンとして期待している。