自由なサラリーマン生活
旅好きが嵩じて旅行業へ! 旅行業界34年のきっかけと軌跡
1.くすんでいた鉄道会社員時代 1)憂さ晴らしに登山を 1963年小田急電鉄へ入社、直ちに見習い駅員として町田駅で現場経験を積みました。この一 年半の駅勤務の間に鉄道員としてのイロハと、心構えを教え込まれました。赴任早々の深夜トン ネル内で飛び込み自殺した老婆の死体処理を手伝い、そのままひとりで死体を監視するような、 ぞっとする経験を味わったり、不正乗車客を民家の庭先まで追い詰めてラグビー仕込みのタック ルで捕捉したり、結構息抜きもしながら厳しい現場実務を体験致しました。現場の体験は「臨場 感」を知る上でも、その後の人生観形成のうえでも大きな助けとなりました。現場修行を卒え、本 社経理部に配属され経理業務を初歩から学びましたが、保守的で厳然としたヒエラルキーが確立 され、「保守主義の原則」を忠実に貫く経理業務とその空気にはどうしても馴染めず、気持ちが入 らないまま仕事は二の次にして、山岳部に入ってもっぱら登山に熱中し、毎日上の空で机に向か い、貴重な時間を無為に過ごしたような気がして、いま思い返してももったいなかったと反省してお ります。 2)そして海外ひとり旅へ この間社外でベトナム反戦運動、沖縄返還闘争にも加わり、国際社会の大きなうねりを身体で 知ることになりました。仕事では中途半端な気持ちを引き摺ったまま、66年暮れ初めて単身海外へ 飛び立ちました。 泥沼化したベトナム戦争の実態を自分の生の目で見、身体で直に感じてみようと思ったからです。 想像もしなかった驚くような現実に頬を叩かれ、ほうほうの態で帰って来ました。懲りもせず翌年も 戦乱の地、アラブとアフリカ、そして独立直後のアデンへ出かけました。またもや驚愕するような怖 い目に遭ってしまいました。戒厳令下のアンマン(ヨルダン)市内で軍隊に身柄を拘束されたり、ス エズ運河では警察に連行され、ホテルの一室に軟禁されるような酷い目に遭いました。一歩間違 えば生命を失いかねない恐れもありました。 しかし、その時本当の意味で「臨場感」の大切さを知りました。帰国してからも職場では相変わら ず虚ろな毎日を過ごしておりました。この頃漸くこのままでは自分を殺してしまうと自分自身に問い 詰め、改めて自分自身出直そうと考えました。その結果過去の海外ひとり旅の体験から、また社会 科学をもっと学んでみたいとの気持ちから、大学講師になってやり直そうと考えたのです。そのた めその当時、その未来にいくばくかのほのかな希望を抱いていたチェコスロバキアへの留学を考え ました。ヨーロッパではイタリアのボローニャ大学に次いで歴史のある、プラハ市内のカレル大学で 社会主義思想を学ぶことを選択しました。相談した親しい知人、友人たちは計画性がないと言って、 挙って私の考えに反対でした。 しかし、最終的には自分自身で決断するしかありません。頑固な私はチェコへの留学を決断し会 社へ辞表を提出しました。 3)「プラハの春」事件が留学の道閉ざす。 カレル大学入学の許可が得られないまま、秘かに渡航の準備を始めました。秋の出発を前に渡 航手続きを粛々と進めていた1968年8月20日深夜、ソ連軍を主力とするワルシャワ軍が突然チェ コスロヴァキアへ侵入しました。「プラハの春」を演出しつつあったチェコのドプチェックら民主勢力を 武力で排除したのです。プラハ市内はワルシャワ軍の戦車に占領され、この武力弾圧という思いが けない事態の急展開により、私の新しい船出である留学は絶望的となり、気持ちは焦りと焦燥感 から、会社でも家でも居ても立ってもいられないほど悩み苦しみました。その結果泣く泣く留学を諦 めることに致しました。恥を忍んで辞表も撤回し、再び気の向かないまま元の経理部で働くことにな りました。 4)鉄道会社後半は旅行関連業務で意欲もりもり、やる気満々 前から悶々とした私の胸中を察して心配してくれていた上司の配慮により、69年4月鉄道会社内 にある国内旅行部門へ異動することになりました。その配転の裏には、いずれ会社が海外旅行事 業を立ち上げる際に、私にその中心になって欲しいとの含みがありました。話を聞いた時点では、 半信半疑であまり大きな期待はしていませんでしたが、それとなく探ってみると海外旅行事業へ乗 り出すことが全グループの長期計画ではっきり謳われていることが分かりました。漸く自分の出番が やってきたと、思わずほくそ笑んだことを覚えています。 まもなく海外事業の話が現実味を帯びてきました。周囲には海外へ出かけた平社員は、私のほか にはひとりもいませんでした。腕を揮える千載一遇のチャンス到来でした。他社と提携しながら近場 の海外旅行を、自分なりに見よう見まねで何とか企画しました。実際下見旅行にも行く機会を与えら れ、自分のアイディアも取り入れ、初めて自分で作った企画ツアーを販売することになりました。幸い にして多くのお客さまを集めることが出来ました。いままでの薄い闇の中に一筋の光明を見出したよ うに感じました。漸くこれまでの道とは異なる、新しい分野に進むべき道を見つけたように感じました。 |
2.のびのび旅行業界人 1)新規企画開拓のきっかけとなった「加藤隼戦闘隊慰霊団」 72年1月、旧帝国陸軍航空隊・飛行第64戦隊(通称加藤隼戦闘隊)戦跡巡拝慰霊団を案内して、 初めてビルマ、シンガポール、台湾へ英霊を供養する旅へ出かけました。企画段階では思いもかけ なかった感激的な慰霊の旅となりました。30年ぶりにかつて艱難辛苦に耐えたビルマを訪れ、当時 を偲びながら亡き戦友の御霊を供養して感涙に咽ぶ元兵士と、ビルマ政府高官の温情に触れ、漸 く戦後抱いていた肩の重荷を降ろしたとの安堵感から、終始慰霊団の中に慕情と情愛の心が通い 合い、とても感動的で印象深いツアーとなりました。さらに親日的なビルマ人の温かい心情に接し、 全員ビルマにのめり込みました。私もすっかりビルマの虜となり、その後多くの戦友会に顔を出すよ うになり、いくつものビルマ戦跡巡拝団を企画し、案内するようになりました。 この加藤隼戦闘隊ビルマ慰霊団の成功が、その後の私の旅行業人生に決定的な影響を与えま した。厚生省(現厚生労働省)援護局が国家事業として行っていた太平洋戦争戦没者遺骨収集事 業への参画を認可され、毎年のように中部太平洋地区、その他の旧激戦地へ出かける機会が増え、 事業のお手伝いをする中で、遺族会、戦友会の方々や、現地でも多くの方々と知り合うことができ ました。 2)自由に企画できたツアーと成功したツアー まだ成熟した産業とは言えない海外旅行業には、新参者の私たちにも多くのチャンスがありまし た。かねてから自分で企画旅行として考えていた腹案を実験的に実行しました。自分ひとりのアイ ディアと実行力で最初に企画したツアーは、元鉄道員らしく「マレー半島縦断2000q鉄道の旅」 でした。ひとりで考え、プライベートも併せ、2度下見調査も行い、自信をもってツアーを売り出しま した。山岳雑誌‘山と渓谷’社が企画案に賛同して、ツアーに協賛してくれました。第1回のツアー では、同誌編集長と読者代表が参加してくれました。 その他にも数多くの独自企画を打ち出し、幸いにしてヒット商品となりました。それから10年後に 同じ企画を若干修正のうえシリーズで販売し、2千名を超える参加者を得て大ヒット商品となり、以 後数年間に亘って同じ企画はシリーズとして実施され、初めて旅行業者冥利に尽きる至福を味わ いました。 3)思い切って世界へ、広がる世界の友との交流 このころから世界各地へいろんな形で出かけました。そのほとんどは下見調査であり、プライベ ートであり、添乗員としてでした。旅行を通して国内外で多くの方と知り合えたことは、私にとって 大きな財産となりました。海外で知り合った人びととはいまでも親しくお付き合い願っております。 その中には、アメリカの証券最大手の副社長まで務めた韓国系アメリカ人Sさんのような人もい ました。家族同士で付き合い、私が訪米の際は必ずニューヨークで会ったり、彼が来日すると、東 京・新宿で一杯やるような仲でした。そのSさんとはいま連絡が途切れています。数年前に彼が新 しく始めた事業へ参画を持ちかけられたのですが、それ以前から彼が北朝鮮へ度々出かけ、あの 金正日総書記関係筋とのいささか尋常でない間柄が気にかかったことが一因でした。 ブラジル人の友人Aさんとは、カイロのピラミッドで知り合いました。Aさんとは一緒に日光や箱根 へ出かけ、わが家のテレビでJリーグの試合を見たこともあり、私はリオにある彼の自宅を2度も訪 れました。一番感激したのは、神戸大地震の直後に、わざわざリオの自宅から電話をくれ「親戚や 友人は大丈夫か?」と、東京住まいの私の家族の安否を一応心配しながら、私の友人の安否まで 気にかけてくれる優しさと思いやりに胸を打たれました。 ビルマには心優しい友人が数多くおりますので、ビルマへ行くことをいつも楽しみにしています。 ここ7年ほどビルマへ出かけておりませんが、いまでも親しいビルマの友人たちとは文通による交 流を続けております。 何人かの在外邦人の友人にも不思議な縁で巡りあうことができましたた。中でも山崎洋さんは 大学が同じ、しかも同じ経済学部の同級生です。在学中はお互いにまったく知らずにいましたが、 今から30年ほど前に文部省の教員海外視察団の添乗員として旧ユーゴスラヴィアのリエカ市で学 校訪問した際に、通訳をお願いしたのが山崎さんでした。抜群の語学力と社会科学の知識は、全 派遣団員に深い感銘を与えましたが、あるとき彼が私をまじまじと見つめた後で、どこかで会った ような気がすると言い出し、改めて自己紹介してみると何と同級生だったと判ったのです。しかも 同じ社会政策関係のゼミで学んでいたことも判り、一気にわたしたちの距離は縮まり、二人ともそ の奇遇に驚きました。その後はすっかり打ち解けた雰囲気の中で視察ツアーも大成功でした。 4)同級生山崎洋さんとの友情 これまでの山崎さんの半生は波乱に富んでいました。父は戦前のスパイ事件、ゾルゲ事件の関 係者で、リヒャルト・ゾルゲの仲間として知られたクロアチア人ジャーナリスト、ブランコ・ド・ブーケリ ッチ氏です。母親は山崎淑子さんと仰って、夫が昭和20年3月に網走で獄死された後、女手ひとつ で一人息子洋さんを育てあげました。洋さんは大学卒業と同時に、父の母国、旧ユーゴスラヴィア へ渡り、今日まで首都べオグラードで日本と旧ユーゴスラヴィアの友好のために働いてきました。 母を日本に残し、ずっと異国で生活を続ける胸のうちを想像することは出来ません。しかし、お母さ んのことを大切に考え、離れていてもいつもお母さんのことをとても気にかけていました。毎年お母 さんの元へ帰ってきては、私にも電話をくれ、時には会って旧交を温めていました。 そのお母さんが昨年5月90歳で亡くなりました。いま彼は家族とともにベオグラードに腰を据え、 日本とセルビア(旧ユーゴスラヴィア分離独立後の一共和国)の親善と文化の交流のために、地道 に活動を続けています。 5)ユニークな新規開発商品 商品企画を担当していた当時、いくつかのヒット商品を企画しました。営業部署では新しい分野 で新規顧客開拓のために斬新な戦術とアイディアを練ったことがいまも印象に残っています。特に、 国家事業や地方自治体等役所関係の新規受注は、責任感も問われましたので誠心誠意真剣に 取り組んで信頼していただき、長きに亘って仕事を賜り、幸いいまも後輩たちが永続的に受注して おります。 商品企画を担当していた当時は、いくつかのヒット商品を企画する幸運に恵まれました。その中 で最大のヒット商品は、前記の「マレー半島縦断2,000q鉄道の旅」と外人旅行箱根パック商品 「ODAKYU EXPRESS」です。 前者は初期の企画を修正して、87年に販売しその年に2千名以上のツアー参加者がありました。 93年まで毎年企画して多くの方に東南アジアの列車の旅を楽しんでいただきました。後者は、一人 でも参加できる画期的なパック商品として「夕刊フジ」やアメリカの旅行紙にも紹介され、その簡便 で参加し易い新しいタイプのパック商品として、外国航空会社からも高く評価されました。専用のガ イドブックの案内に従ってコースを辿っていけば、箱根ゴールデンコースをガイドなしに回遊できる ユニークな商品です。そのアイディアの源泉は、初めてボストンを訪れた時に、ボストン市内のウォ ーキング観光コースで、指定された道路上の白線に沿って歩いて行けば、いつの間にか市内の観 光ができるという簡便なアイディアに感心し、そのエッセンスを拝借したものです。僭越ですが、現 在でもその商品企画のアイディアは瑞々しく、いまでもそのまま販売できるクオリティの高いパック 商品だと確信しております。 このようなヒット商品を企画できる立場にいたことは、僥倖と言ってもよいかも知れません。 6)自分のツアーでお客さまを案内 旅行業者にとって自らツアーを企画し、お客様を案内し、喜んでいただくことほど嬉しいことはあ りません。お客様と四六時中一緒に行動し、同じ空気を吸って同じ体験をし、お客様の反応をつぶ さに見聞できること自体、次のツアーを企画するうえで大変勉強になります。これこそ旅行業者冥 利に尽きると言っても過言ではありません。20年以上に亘り毎年6月に「自分のツアー」を企画し、 お客様を案内致しました。自分で集客し、自分で想像する理想のツアーとすべく、自分で内容案内 を書き、自分自身の創作によるガイドブックを作りました。私自身が添乗員として同行し、自分の目 指す「心から参加者が納得し楽しめるツアー」を作って参りました。 ツアー参加者は、そのほとんどが70歳前後の女性です。長く続いた最大の原因のひとつは、参 加者の「出番」を演出し、それが好まれ毎年定番となったことだと思います。比較的経済的に余裕 のある顧客でしたから、ホテルや食事は高級感のある第一級のところを選択しました。ガイドさん は以前からよく知っていて人柄もよくインテリの方にお願いしました。全行程を添乗員の私がビデ オカメラを持ってお客様の思い出作りのために奮闘して、帰国後2時間の2巻物に編集しました。 旅程にもメリハリをつけ、一般的なコースの中に気持ちをそそられるような味付けをしました。これ で十分グレードの高いツアーになりましたが、極め付きは前記の「出番」の演出でした。 初めのうちは、旅程の最終日の夕食を思い出のお別れ会のような形式で、楽しい宴としていただ けでしたが、1回の夕食会が2回、3回となり、次第に内容もエスカレートして楽しさと愉しみが倍増 していきました。参加者の気持ちには、日常では経験できない華やかなパーティに参加するという 昂揚感があります。その時を楽しみに期待してくれていることがはっきり分るのです。いまや華やか な場にあまり出番や縁のなくなった人たちにとっては大きな楽しみなのです。これが恒例となり、毎 年お客さまがこのツアーの案内を楽しみに待ってくれるようになりました。 このように毎年、翌年のツアーを期待して待ってくれるような企画を作り出せたことが、私をポジテ ィブに新たな挑戦へ向かわせてくれた要因だと思います。 7)旅行業界と若い旅行業界人へ 旅行業というのは、「旅行」を介して旅行業者がお客様にサービスを提供することによって成り立 っています。そのサービスとは、商売としての旅行を手配するだけでなく、的確な情報提供であり、 お客さまが心置きなく相談し、楽しく旅行できるように後ろからそっと手を添えてあげる親切心と思 いやりなのです。最も大切なことは、お客様に対していつも心の篭った、信頼される応対ができる かどうかということです。 旅行に関する手配は商売としては、ごく当たり前のことです。案外分って るるようでいて出来ていないのが、目に映らない本当の意味のお客さまへのサービスです。それ は、旅行、特に海外旅行のような誰もが憧れることに仕事として携わることができて、仕事として 旅行できることが、恰も自分の財布、或いは自分の力で旅行しているような錯覚に陥らせるから です。お客さまのおかげで、旅行をお世話をさせていただいているという、謙虚で当然なことを忘 れてしまうからです。このことを旅行業者は決して忘れてはなりません。 従ってお客様の期待に応えるためには、どうしたら信頼できる情報を的確に伝え、喜んでいただ ける立ち居振る舞いが求められるのかという点について、平生から心がけていなければなりませ ん。私はこれから旅行業界を背負っていく若い人たちに対して、次の点を伝えたいと思います。 1)普段から他人の立場や、気持ちを思いやる心情を育む心がまえを持ち続ける。 2)世の常識、社会通念を改めて頭の中へリセットする。 3)世界的に知られた大河小説をたくさん読み込んでおく。 4)何ごとにも好奇心と関心を持って調べてみる。 5)私費でできるだけ旅をする。 6)努めて仕事で行く機会がないような土地へ行ってみる。 7)外国に信頼できる友人を持つ。 8)いつも仕事の最前線で世界とコミュニケートしているとの気概を持つ。 9)手紙を書く癖をつける。 10)向上心と好奇心をいつまでも持ち続ける。 旅行を職業にできることは、本当に素晴しいことだと思います。自らを省みて紆余曲折はありまし たが、幸運にも好きな旅行を生業にすることができて幸せだったと思います。旅行業というのは、 外から見れば楽しそうで、格好よくて、仕事で海外旅行できて、いい事尽くめに思えます。しかし、 その裏に他人には言えない辛いことが沢山あるということを見失いがちです。仕事はきちんとやっ ても感情の行き違いから商売がうまくいかないこともあります。理屈ではなく、心の通い合いなの です。これから旅行業界を目指す人たちには、ルール、約束、契約等さえきちんとしていれば、心 配要らないと思っている人が多いかも知れませんが、それも勿論大切な要素ですが、むしろ旅行 は生身の人間同士の信頼関係や、気遣いによって話が随分うまく行ったり、その反対に予定通り いかなくなることもしばしばあります。旅行業は夢のある仕事です。一時的に、辛いことがあっても 希望を失わずに、明るく前向きに歩んでやってみようと考えてください。きっと素晴しい人生が開け てきます。 8)いまの自分とこれからの自分について 4年前に会社を辞め、それまで仕事の合間に執筆していたエッセイ等をまとめている間に、これか らは自分の好きなことをやってみようと考え、そのためにはいままでの旅の経験を文章にまとめ、話 をする機会を得ることが大切であると思い、また、それが自分には一番適っていると考え、著述業の 道を選択することに致しました。 おかげさまで自由気ままに好きなことができ、いまではそんな自由が許される自分は幸せだと有 難く思っております。最近3年ばかりの間両膝を痛め、海外にも出かけておりませんが、幸い大分回 復して参りましたので、これからは旅を楽しみながら自分の時間を大切に、日ごろ考えていることを 文章にして、発表して参りたいと存じます。 幸い周囲には私を心強くサポートしてくれる素晴しい恩師、先輩、友人、家族がおります。ゼミの 恩師・飯田鼎先生(慶應義塾大学名誉教授)には、いまでもご厚誼をいただき、時々ご自宅をお訪 ねしては、教えを請い学生時代の懐かしい雰囲気を思い出させていただきながら、楽しいひととき を過ごしております。先生のお人柄とゼミの様子については、本HP上「最近発表の提言・小論・エッ セイ」の「飯田学校の思い出」(飯田鼎著作集第1巻月報96年10月)の中で紹介致しました。また、 執筆活動に力を注ぐことができた大きな要因は、敬愛する作家・小中陽太郎先生に巡りあうことが できたことだと思います。小中先生には、日ごろよりご指導いただいておりますが、拙著「現代・海 外武者修行のすすめ」に、私の性格と行動まで見抜いた素晴しい推薦文を書いていただきました。 また、(社)日本ペンクラブへの入会も薦めていただきました。03年に初めての賞「ギリシャ政府観 光局長賞エッセイ入賞」(エッセイは本HPに掲載)を頂いた際の審査委員長であった、日本ペンク ラブ専務理事・阿刀田高先生を改めてご紹介下さり、ご高名なお二人の先生にともども日本ペンク ラブ会員への推薦人になっていただきました。NPO「知的生産の技術研究会」八木哲郎会長を始 め、親しい知研会員仲間、安保世代の大学ゼミの友人、高校ラグビーの仲間、登山仲間、千葉・ 京都小中時代の友だち、小田急グループの親しい仲間たち、ら多くの人たちに支えられ助けられ ています。これからもポジティブに著述活動に邁進して参りたいと考えております。 いま差し当たってトライしてみたいことは、ひとつに本ホームページの作品例にも記載致しました 「図解」技術をいろいろ工夫することによって、さまざまな分野でその利用を考え、その実用的なツ ールを見出し、それを広く啓蒙していくことです。そのひとつの例として、「自己紹介・自己PR図」が あります。また、もうひとつトライしてみたいオブジェクトは、人生を「60歳定年⇒余生、或いは第二 の人生」という固定概念を早い段階で打ち破り、早くから計画的な人生プランを確立し、人生、特に 後半生をより充実したものに変えていくために考え出した「人生三分活動期説」を普及させて、中 高年者に早くから楽しい夢を持ってもらいたいということを考えております。時間的にはまだ先のこ とになると存じますが、彼ら(私を含む中高年者)が晩年の生活に、もっと潤いと夢を持ってもらうこ とを早くから考えることを提言して参りたいと考えております。 甚だ僭越ですが、これからもポジティブに、大きな夢を持って健康の続く限り、著述活動に邁進し て参る所存です。皆さまの厳しいご叱正と温かいご指導、ご鞭撻を切にお願い申し上げます。 |